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霞ヶ浦の旅 [茨城県]

お久しぶりです。この3月に3年半勤めた職場を退職し、4月から都内の別の仕事場に勤務をしております。前の職場は埼玉県だったので、埼玉で3年ほど一人暮らしをしておりましたが、職場が都内に移ったのを機に、住居も都内の実家に戻りました。
今まで引っ越しや新職場での仕事に慣れるのにバタバタしており、なかなかブログを更新できないでいましたが、これからまた少しずつブログを更新していきたいと思います。
しかし、ブログのネタはまだ埼玉県で暮らしていた時のものが多く残っています。埼玉で暮らしていた時期のことを懐かしく思いながら、記事を書いていきたいと思います。最初は埼玉生活の最終盤に行った霞ヶ浦の旅から。
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茨城県と千葉県にまたがって広がる霞ヶ浦。
日本最大の湖である琵琶湖に次ぐ第2位の面積を持ち、関東地方の地図を眺めていると、強い存在感を表していながら、実際にはいまいち馴染みがない湖である。
そんな「霞ヶ浦を見てみたい」という思いを潜在的に持つようになったのは、網野善彦氏の著作『「日本」とは何か』(日本の歴史00、講談社学術文庫、2008年。初版は2000年)を読んでからであった。

日本とは何か  日本の歴史〈00〉

日本とは何か 日本の歴史〈00〉

  • 作者: 網野 善彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2000/10/24
  • メディア: 単行本


私自身のまったく小さな経験からみても、敗戦後まもなく古文書調査のために歩いた各地の海や湖の世界の、最近の変貌ぶりには心を暗くさせられ、ときに慄然とせざつをえなかったのである。…たとえば一九五〇年代の霞ヶ浦・北浦は湖辺に葭や真菰が生いしげり、青々とした世界をつくり出すとともに、舟の出入する河岸の風景が残っており、この湖特有の帆引網や大徳網などの漁撈がまださかんな、美しく生き生きとした水郷であった。 しかし一九七〇年代の後半、土浦に宿をとり、湯に入ろうとした私は、一瞬、霞ヶ浦に温泉があったのかと錯覚した。それほどに強い硫化水素の臭いがしたのであるが、それは水道の水そのものの臭気だった。 列島各地の渚や浜と同じように、赤白の煙突の林立する鹿島臨海工業地域が造成され、そこへの水の供給のため、霞ヶ浦を巨大な水がめとするべく、湖の出入口に水門を設けて海水をせきとめ、湖岸をコンクリートで固めた結果が、この事態だったのである。たしかにこれによって湖からの洪水の危険は少なくなり、工業団地によって、湖辺の生活の便利さは増し、豊かになったことは間違いないが、湖辺の美しい風景はほとんど消え去り、帆引網も姿を消した。そして湖は流れ込む生活廃水によって富栄養化し、夏になるとアオコが大発生して腐敗するため、硫化水素が発生し、“温泉”を思わせる臭気が湖辺に充満することになっていった。まさしく湖には死の影が迫っており、鯉の大量死も実際におこったのである。(12頁)


『「日本」とは何か』は、網野氏の死の4年前に出された本で、当時すでに網野氏は肺がんに侵され、手術を受けながら執筆したという事情があった本である。それだけに「次世代にこれだけは伝えたいという迫力が感じられ」(文庫本同書の解説、大津透氏)る名著である。

実際に自分も霞ヶ浦のイメージと言うのは、網野氏が描いた「死の影」が迫るものであったと思う。霞ヶ浦が美しい湖であるとなどと今まで一度も思ったことがない。むしろ、生活排水や工場からの排水により、汚濁が進んだ湖、というイメージしかなかった。

確かに美しい自然環境がいつまでも、そしてこれからも日本の豊かな光景の一部として残れば良い。自然破壊、環境汚染に静かに、しかし激しい怒りを向ける網野氏の思いには共感する面が多々ある。だが、実際に人間が自然を利用し、開発し、そして次のステージに進む、というのは必然的な面がある。進歩とか、そういうものではなく、必然なのだ。そして、そのために自然が破壊される、というのもまた一つの現実である。これも良い、悪いではなく、現実なのだ。

私は今回の旅で、その現実を見てみたいと思った。すなわち、それは今の霞ヶ浦の姿である。

そんなわけで、開通したばかりの圏央道を使って、一路茨城県へ向かった。

なお、今回の旅は霞ヶ浦だけを見に行ったわけではなく、国王神社(坂東市)や筑波山のすがた(筑西市)などを見た後に霞ヶ浦に向かったので、最初に着いたのは茨城県行方市、行方大橋のたもとにある霞ヶ浦ふれあいランドである。

行方市側から行方大橋を眺める。すなわち橋の対岸はかすみがうら市となる。
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霞ヶ浦は本来、利根川を経由し、海とつながっていたが、網野氏の本で引用したように現在は水門により、海水は霞ヶ浦に入らない。
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水門の建設による海水の遡上防止は、利根川の洪水が霞ヶ浦に及ぶのと海水による農地への塩害を防止するのに非常に効果的な役割を果たしたようだ。

網野氏が本で指摘していた水門である。下流の神栖にある常陸川水門や利根川河口堰(千葉県東庄町、茨城県神栖市)などがその役割を果たしている。

古い新聞記事などを見ると、この塩害の防止は沿岸の農民たちにとって死活問題であったようだ。

網野氏の本にあったような臭気はここでは感じられなかった。霞ヶ浦の水質改善事業は、根本的な効果が出ているとは言えないものの、確かに進んでいるようだ。

なお、この近くのレストラン「和洋ダイニング 新選組」にてお昼を食べた。
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ざるうどんとお寿司を頼んだのだが、霞ヶ浦の名物、鯉の刺身を頼まなかったのが今になっても悔やまれる。

続いて、向かったのは鹿島神宮近くの北浦。
潮来と向かい合う鹿嶋市大船津には、鹿島神宮の一の鳥居が湖の中に立っている。
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解説板によると…
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大船津の一之鳥居は、鹿島神宮に通じる東西南北の四ヶ所に設けられた一之鳥居の一つで、西の一之鳥居に当たります。鎌倉時代、鹿嶋の土地隆起により御手洗池近くまで入っていた船の往来ができなくなり、船着き場となった大船津に、僧侶の忍性が鳥居を建てたのが最初とされています。 1618年に徳川二代将軍秀忠が社殿と合わせて奉納した鳥居は水中鳥居で、当時までに鹿嶋の玄関口でした。現在の鳥居は、2013年6月に再建されたもので、水底からの高さが、18.5メートル、幅22.5メートルもあり、水上の鳥居としては厳島神社の高さ16メートルを超える国内最大級の大きさです。


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河川水運というものが、すっかり馴染みがなくなった現代の日本では想像がつきづらいが、道路交通も鉄道も発達していない昔は、船による人や物の輸送はもっとも効率の良い輸送方法であったわけだ。ここ大船津も鹿島神宮参詣に向かう人などで往古はさぞかし賑わったのであろう。

今は住宅地を中心とする湖畔の集落で、太い国道やバイパスが通っており、往時の姿は見いだせない。
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北浦にかかる国道51号の橋は神宮橋の名称がある。この奥にもう一本、鹿嶋バイパスの新橋がかかっている。
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この橋を渡ると潮来である。東京まで連絡する東関東自動車道、そして成田や香取方面へ行くことができる。

大船津の稲荷神社
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屋根の色が独特だ。
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しばし、周囲をふらり。道路の案内看板には「カシマサッカー場」の文字が。
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鹿嶋はアントラーズの本拠地である。なお、県立カシマサッカースタジアムはワールドカップの会場としても使ったことがある。

こちらは成田線が北浦を渡る神宮橋。
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等間隔に並ぶ橋脚と架線柱がいくつも並び、美しい。

霞ヶ浦は水深が浅いため、おそらく橋をかけるのにさほど困難はないのだろう。
だが、一方で長大橋となる。電車に乗って、この橋を渡ったらさながら海の上を渡っているような光景なのだろう。
昔行ったベネチアへ向かう電車がアドリア海の上をゆっくりと走っていった鉄橋の光景を思い起こさせる。ぜひともこの上を走る電車に乗ってみたい、そしてこの鉄橋を走る電車を撮ってみたい、と思ったが、ちょうど鹿島神宮駅を出た電車が行ってしまったところであった。

次の電車は何と1時間後。そんなに待てない。残念ながら、北浦を渡る成田線電車の写真はまた次回にお預け。

春先の霞ヶ浦はのどかに暖かかった。林立する送電線の鉄塔は臨海工業地帯に向かっているのだろう。
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特に何かあるわけではないが、霞ヶ浦の現在の光景はとてもよかった。
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霞ヶ浦の沿岸はまだまだたくさんある。
これからもちょくちょく霞ヶ浦の光景を写真に撮りたい、と思った。

この後は鹿島神宮に向かいました。
(つづく)
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KINYAN0829

こんばんは
お久しぶりです。実家に帰って新たな仕事と環境が変わりますので、体調管理に気をつけて、お仕事頑張って下さい(^^♪
by KINYAN0829 (2017-04-30 19:15) 

能転気おやじ

こんにちは。
お久しぶりです。
転職でいろいろ大変でしょうが、慌てず焦らずご活躍下さい。
by 能転気おやじ (2017-05-01 12:26) 

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