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両毛へ行ってきた3(徳川の満徳寺) [群馬県]

続いて世良田の長楽寺から車で5分ほどの徳川地区へ向かいました。徳川(本来は得川)と言う地名はもちろん徳川家康が祖先にしちゃった言わば名字の地なのですが、私の中で素朴な疑問が。新田義重の子、義季は世良田に住んだので世良田氏を名乗っています。そうすると、徳川という名字は一体どこから来たのでしょうか・・・?
ここのところ今でも私はよくわからないのです。世良田義季を祖先にしたら、世良田家康になっちゃいますが・・・
それはともかくこの徳川には、徳川氏由来の地というだけでなく、もう一つ面白いものがあります。
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歴史公園を出て南下し、「境平塚」交差点で左折し、東進すると、右側に「徳川氏発祥の地」と書かれた大きな看板があり、左側に「縁切寺満徳寺の里P」と書かれた看板があります。ここの駐車場に車を入れます。
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相変わらず駐車場は広い上、空いていて安心です。
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駐車場から「太田市立縁切寺満徳寺資料館入口」と書かれた方に進んでいきます。
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良さげな畑の中を進むと・・・
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縁切寺満徳寺資料館に着きました。
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満徳寺は縁切寺として有名です。
世良田義季と娘の尼が開いたお寺で、代々新田氏の尼が住職でしたが、室町時代にはお寺は衰えてしまいました。しかし、例の家康が先祖の地やお寺を大事にしようと保護したので、再興しました。
江戸時代には、縁切寺として機能しました。

この当時は、夫の側から妻に離婚状(三下り半)を出さなければ離婚できませんでした。
満徳寺の縁切機能というのは、この寺に駆け込んだ女の人は三年間、お寺での生活をすれば、お寺の役人の命令で夫は強制的に離婚状を書かなければならないというものでした(もちろん、その途中でのお寺の役人による仲介・調停離婚という手もあったそうです)。
このもとは次のような話にあります。

家康の嫡男の秀忠(二代将軍)には千姫という娘がいましたが、彼女は豊臣秀頼(秀吉の嫡男)に嫁いでいました。しかし、大阪の役で家康に豊臣氏は滅ぼされると、千姫は秀頼と離縁しなければならなくなりました。一説によると、この時、千姫は満徳寺に入ってから、姫路の本田忠刻(ただとき)のもとへ再嫁したと言われています。
この話の真偽はともかく離縁というのは、再婚を可能にする上で必要な手続きで、離縁の手続きをとらなければどっちも再婚はできないのでありました。千姫の話は、一応ちゃんと千姫は秀忠との離縁の手続きをとったということを示すためのものでしょう。

同様のお寺は、あと一つ相模(神奈川)鎌倉の東慶寺がやはり同じ機能を持っていました。どちらも典型的なアジール(特権が認められた聖域)で、中世史が専門の歴史学者、網野善彦さんもこの満徳寺のことを取り上げています。

つまり満徳寺は苦しむ江戸時代の女の人を救うお寺というわけであったのです。

・・・と一般には理解されていますが、実際のところどうなんでしょう?
江戸時代と言えど離婚する人は少なくはなかったでしょう。そうなるとどうしても離婚したい人は、相模(神奈川)の東慶寺か、ここ上州(群馬)の満徳寺へ来なければいけないわけですが、江戸時代は庶民の交通が制限された時代ですから、遠方の人にとってそんな容易なことではありません。
満徳寺資料館にあった資料パネルを見ても、駆け込んだ人は遠くても江戸くらい。
そうなると、あとの人はどうやって離婚したのか・・・
実際には縁切寺に頼らずとも、離婚はできたものなのであろうと思います。
『国史大辞典』の「離婚」の項目にこんな記述がありました。
ちょっと長いですが、引用します。
江戸時代、武士の場合、夫の家と妻の実家から各別に主君にあてた、双方熟談のうえ離縁する旨の届けが受理されて離縁は成立した。武士では、夫と妻の家格を比べると、一般的には同格か、妻の家の家格の方が上であったこと、礼儀が重視されたことなどから、夫による一方的な離縁はなされず、形式・実質ともに「熟談離婚」であった。庶民の場合、嫁入り・婿入りを問わず、必ず夫から妻へ交付された離縁状を授受することによって離縁は成立し、夫婦ともに再婚することができた。離縁状なき再婚は、幕府法で処罰された。もっとも地方によっては、人別送りの返戻などによって離縁状の慣習のないところもあった。離縁状が必ず夫から妻に交付されたことから、自分の意のままに理由も問わず一方的に妻を離縁できる、夫による追い出し離婚、いわゆる「夫専権離婚」であるといわれたが、妻の飛び出し離婚もみられ、むしろ実態は武士同様に、夫婦(両家)間の協議を伴う「熟談離婚」であった。


つまり、縁切寺に頼らなくても武士も庶民も協議による離婚をしていたわけです。そうなると鎌倉の東慶寺や満徳寺は、徳川家ゆかりのお寺に古い慣習が残っていたということに過ぎないと私は思っています。
そもそもお寺に駆け込んだ女性は、お寺での生活費を払わなければならず、これが結構巨額なので、駆け込みでの離婚もなかなか大変なことです。
でも、幕藩体制が構築された江戸時代にそんな中世的なアジールが存在している、それも徳川家のご威光で存続しているというのは、なかなか面白い事例です。

まあ、それはともかくとして、今では資料館では縁切寺にちなんで、縁を切りたいものを紙に書いて専用のトイレで流すというユニークなおまじないができます。
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これは縁切り札専用トイレなので、どんなにお腹が痛くてもここでしてはいけません。でも、ちゃんと扉までついているので、年に一人か二人は、本来的な使用方法をしてしまう人がいるのではないかと密かに妙な心配をしてしまいました。

資料館はボランティアガイドの方が、説明をしてくれます。
みなさん、とても親切でなかなか気持ちの良い資料館でした。

そんな資料館を出て、隣の満徳寺へ向かいます。
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満徳寺とは言うものの、実際は無住です。実は満徳寺は明治の初期に廃寺になっているのです。
もともと徳川家の保護のもとに栄えたお寺であったので、檀家を持たないお寺でした。
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それが明治維新で江戸幕府が滅びると、後ろ盾を失い満徳寺も滅びてしまったのです。
その後は跡地は集落の集会所などになっていましたが、近年本堂を復元し、資料館もできて、現在の形となったわけです。
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建物などは往時のものは残されていませんが、徳川将軍の位牌類はあり、資料館や満徳寺本堂に安置されています。
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歴代将軍の位牌です。本物は資料館で見られます。
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これは家康「東照大権現」の位牌。
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ここも静かななか、歴史や文化を堪能できる素晴らしいスポットでした。
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この冬一番とも言われた寒空のもと、周辺ではボランティアの方がお掃除。ごくろうさまです。
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いろんなことを学んで世良田と徳川の見学を終えました。よくわからなかったところ、今後勉強しなければならないところもいっぱいありましたが、とりあえず名に聞く世良田と徳川の満徳寺を見れて満足でした。
これで我々は車に乗り、今度は栃木県の方へ向かうのでした。

(つづく)

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